星になれたなら

つみあげログです

Calan d'Ache Ecridor Venetian

ちいさなころから、常に傍に紙とペンがあった。

おもしろいゲームを考えては書きとめて、 やることはすべてメモにリストアップして、 ゲームを作ろうとして三角関数やプログラミングのノートをとった。

そうすると、いつだってアイディアはたのしそうに広がっていき、難しい考え事もうまくまとまった。 ところが、紙とペンがないときはてんでうまくいかないのだった。

ふしぎなものだ。

数学者が数式で話すように、音楽家が音で語るように、人は考えのやりかた、形がちがうらしい。 ぼくは彼らほどえらい人間でも独創的な人間でもないのだけれど、 ぼくの考えのかたちはどうにも紙の形をしているらしい、というのはそうらしかった。

そういうわけで、ITだ、AIだ、というこの時代、エンジニアという職業にして、いまだに紙とペンで身を立てている。

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ぼくは気が散りやすく、その時々によって好みの紙のすべりかたがちがう。 そういうわけで、なにかをはじめるときは何十とあるペンの中から今の好みの一本を選ぶ癖があった。

大学に入ったころ、書きやすいらしいと聞いて Calan d'Ache の 849 をなんとなく買った。

――書きやすいペンは世の中にたくさんある。 LAMY 2000 もそうだし、Rotring 600 もそうだし、カヴェコもファーバーカステルもペリカンも、三菱やぺんてるだってそういうものづくりをしている。 でもどれも、ある時はよくて、ある時はなんだかよくない。

ところが、なぜだか、849 はいつ書いても好いと感じるのだった。 どこが良いのかは分からない。 でも、もうこれまでのように、重心や長さなんかを検めて、いいペンの傾向をつかむ必要はないような気がした。

以来、ぼくはペンケースを持ち歩くのをやめ、849 を1本だけ持っていくようになった。今もそうだ。

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もともと、とっちらかった頭脳で心休まることはなく、ひとりでに転んで生きてきた。

それでも、紙とペンは常に傍らにあって、ぼくをしたたかに支えてくれた。

だからだろうか、ペンを眺めていると、いままで何を書いてきたかを思い出す。どこからともなく勇気がでてくる。

ぼくはいま、どこに進んだらいいのかわからない。無明長夜だ。 だからこそ、いままでで一番信頼をおいてきた杖を、今、新たにする必要があると思った。 一番いい物でないとどうにもならない、と思ったのかもしれない。 暗がりを気の遠くなるほど歩いたことを、なにかひとつ覚えておきたかったのかもしれない。

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そうして、エクリドールを買った。

復刻したベネシアンだ。

エクリドールは849と同じシルエットをしていて、 細工はヴェネツィアの水面を模したとかどうだか、という話は聞いたことがあるけれど、 ぼくからするとこれを選んだことにとくに意味はない。

なんとなくエクリドールの、このデザインだとおもった。

これもやっぱり、いつ、どう書いても好いと感じるのだった。 手によくなじむ、7年間ぼくを支えてきた杖とぴったりおんなじの感覚がする。

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エクリドールベネシアンを滑らせていると、たぶん大丈夫だろうという気がする。

理由はやっぱりわからない。

このあとぼくがこの杖でどこまで歩いたか、それがすべてを語ってくれるとは確信できるのだけれど。